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「自分の子を苦しめる親」に欠けている記憶 沢木耕太郎"「いのち」の記憶"より

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親から「いのち」を与えられた記憶は、自分の子へ「いのち」を与える行為につながっていく(写真:Fast&Slow / PIXTA)
沢木耕太郎、と聞いて真っ先に思い浮かぶ言葉は「旅」という人は少なくないのではないか。1986年に発売された旅行記『深夜特急』(最終巻は1992年発売)は、1980~1990年代の若者、とりわけ、バックパッカーから絶大な支持を受け、その後の旅の仕方にも大きな影響を与えた。
その沢木氏の25年分の全エッセイを掲載した『銀河を渡る』が9月27日に刊行された。『深夜特急』や『一瞬の夏』などヒット作の創作秘話や後日談、美空ひばりや檀一雄との思い出話も収録されている。日本を、世界を移動しながら、自身も40~70代へと旅していく沢木氏の好奇心はとどまるところを知らない。今回はその中から、2005年1月の"「いのち」の記憶"を掲載する。この週末、あなたも沢木氏とともに「旅」に出てみてはどうだろうか。

子どもながらに不思議に思っていた

子どもの頃、朝早く起きなくてはならないことがあると、私は父によく頼んだものだった。

「明日の朝、起こしてくれる?」

そう言って、起こしてもらいたい時刻を告げる。すると、父はうなずき、それがたとえどのような時刻であっても必ず起こしてくれた。私は起こしてもらうたびに不思議に思ったものだった。お父さんはどうしてこんなに早い時間に起きられるのだろう?

やがて、私も父親となると、子どもに頼まれることになった。

「明日の朝、起こしてくれる?」

そして、気がつくと、子どもに言われた時刻に起きて、子どもを起こしている自分がいた。自分が親になってみると、子どものために朝早く起きるなどということは、少しも難しいことではないことがわかる。しかし、起こされた子どもの眼には、おそらく子どもの頃の私が浮かべていただろうものと同じ種類の不思議そうな光が宿っている。

お父さんはどうしてこんなに早い時間に起きられるのだろう?

もし、子どもに面と向かってそう訊ねられたら、どう答えていただろう。大人になると目ざとくなるのさ。あるいは、大人になると責任感が増すのさ、とでも答えていただろうか。しかし、どれも違っているような気がする。親にとっては子どもに頼まれたことをするのが少しも苦痛ではないのだ。もしかしたら、それは「喜び」ですらあるかもしれない。

睡眠や食物を削るのは、「生命」を削ることと等しい

あるいは、私の子どもの頃の食卓での記憶に、こんなものがある。食べ盛りの私のおかずの皿に何もなくなってしまうと、母が自分の皿から肉や魚を私の皿に移してくれて、言う。

「食べなさい」

そのときも、子どもの頃の私は思ったはずだ。お母さんはお腹がすかないのだろうか、と。

そして、気がつくと、親になった私も母と同じようなことをやっていた。年を取ると、育ち盛りのときほどの食欲がなくなっているということもあるだろう。だが、それだけでなく、なにより子どもがおいしそうに食べている姿を見ることは自分の「喜び」であるからだ。

ある意味で、親は子に、「睡眠」や「食物」を削って、与えていると言えなくもない。だがそれは、親の「義務」だからというのではなく、「喜び」であるからだ。それを愛情と言ってもよい。しかし、大方の親たちは、それを愛情とも意識しないまま、ごく普通に行っている。「睡眠」を削り、「食物」を削るということは、「生命」を削るということと等しい行為である。自分の「いのち」を削って、子に与える。それが何でもないことのように行われることによって、「いのち」もまたごく自然に伝えられることになるのだ。

しかし、もしも何かの理由でそれがうまくいかなくなったとしたら?

かつて私は、家庭というものに襲いかかる最も悲痛な出来事は何だろうと自問し、その最大のもののひとつは幼い子どもを不意に失ってしまうことではないかと自答したことがある。たとえそれが病気によるものであれ、事故によるものであれ、場合によっては犯罪によるものであれ、不意に幼い子どもを奪われること以上に家庭を苦しめるものはないのではないかと考えたのだ。

しかし、そのときの私には、自らが手を下して幼い子どもを傷つけたり、殺めたりする父親や母親がいる家庭のことはまったく視野に入っていなかった。そんな父親や母親が存在するのは遠い外国の社会、たとえばアメリカのような社会だろうというくらいに思っていた。

ところが、ここ数年、日本のさまざまな土地で幼い子どもへの虐待の存在が明らかになるにつれ、この国においてもその病根はすでにかなりの深さに達していることを認めざるをえなくなってきた。もしかしたら、家庭における最も悲痛な出来事とは幼い子どもに対する虐待であるのかもしれない、と思うほどに。

「いのち」を与えられた記憶が希薄な人たち

幼児ならともかく、学齢期にあるような子どもが、どうしてそれほど過酷な仕打ちを受けながら、逃げ出したり、誰かに告げたりしないのかという意見がある。だが、それは、たとえどのような親であれ、幼い子どもにとって親はつねに圧倒的な存在だということを考慮に入れていない浅薄な意見だと思われる。実際、私たちが幼かった頃のことを考えてみればいい。

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自分を取り囲む世界の中で父親や母親の存在がどれほど大きいものだったか。夜中にふと目が覚め、もしお父さんやお母さんが死んでしまったら自分はどうなるのだろう、と途方に暮れつつ思いをめぐらせたことはないだろうか。その父母に、さらに暴力が加われば、それは絶対的な存在になってしまう。幼い子どもたちに、自力でその引力圏から脱する勇気や知恵を持つことを求めるのは酷な話なのだ。

たぶん、子どもを虐待する父親や母親は、自分が親から「いのち」を与えられた記憶が希薄な人たちなのだろう。

親から「いのち」を与えられた記憶は、自分の子へ「いのち」を与える行為につながっていく。つまり、それは「いのち」をめぐる記憶の連鎖とでもいうべきものだ。もし、その記憶の連鎖が途切れたら、人間にとって何よりも大切なはずの「いのち」の連鎖もまた途絶えてしまうのかもしれない。

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